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2012年9月24日月曜日

鳥取市河原町_お城山展望台・河原(かわはら)城・若鮎城・丸山城_羽柴(豊臣)秀吉・第一次鳥取城攻め・第二次・太閤ヶ平(たいこうがなる)_古事記・大国主命・八上姫・伊福吉部徳足比売_浅野温子「よみ語り」平成24年10月13日・入場整理券オンライン申し込み_出雲大社・神話博しまね・特設会場・神話映像館・はじまりの物語のナレーション

小高い山の上に一際目立つ河原(かわはら)城。
以前から気になっていたのだが、今まで行けなかった。
何やら怪しさも感じていて・・・


駐車場から城を見上げる。

やっと来た。来れた。
近づくにつれ迫力と期待が増す。

入口に到着。
ポスターやチラシなどなどが景観を損ねる。
狭いスペースに梅干ジェラート、梅酒シャーベット、八上姫の桜米、兎さ米(うさまい)なども売っている。パンフを渡され、いきなり「どちから来られましたか?」に一瞬引いたが、入場料は無料!

天守閣最上階からは、360度のパノラマ展望。
鳥取砂丘や久松山、中国山地の山なみも一望できる。



西





中は思っていたより狭く、
各階は階段で行き来するので、ご老人や子供連れの方は大変そうだ。
周辺の梅林やライトアップも楽しめる。

資料によると、河原城は、湯梨浜町の羽衣石城模擬天守などと同じく、ふるさと創生事業の1億円を使って建設された城。堀切、柱穴、廓など多くの遺構が発見され、中世山城の跡だったことは確認されているが、かつて、この山に城や天守閣などの建築物はなく、実在の城を復元したものではない。


浅野温子さん
今、話題になっているのは、平成24年10月13日に開催される浅野温子さんの「よみ語り」。
入場無料だが整理券が必要。下記の公式ホームページからオンラインでも申し込みが出来る。
そういえば、出雲大社近くの「神話博しまね」特設会場・神話映像館「はじまりの物語」のナレーションも浅野温子さん。


●お城山展望台 河原城
ー浅野温子「よみ語り」賣沼神社奉納公演のお知らせー
http://www.kawahara-shiro.com/events/4513
(一部抜粋)

古事記編纂1300年の今年、八上比売のふるさと、ここ河原町で古事記の神話が甦ります。
女優・浅野温子さんは、平成15年からライフワークとして古事記をはじめとした日本の古典の「よみ語り」の活動を始めました。寺社仏閣や世界遺産・名所旧跡・庭園など毎年野外舞台に精力的な活動をしています。今回は「稲羽の素菟(いなばのしろうさぎ)」のヒロイン八上比売と大穴牟遅命(おおなむちのみこと=大国主命の幼名)の日本で一番最初の恋物語と言われるラブストーリー中心に地元の伝承も取り入れた、脚本家・阿村礼子さんの新作です。悠久のロマンへの誘い、みなさんとともに。
日 時:平成24年10月13日(土)13:00開場、14:00開演
場 所:お城山展望台 河原城イベント広場


河原城のある河原町は、
八上姫伝説、伊福吉部徳足比売墓跡、豊臣秀吉の足跡、

霊石山でのスカイスポーツ、鮎、
などなども有名。


八上姫と大国主命
●鳥取県kidサイト きっずらんど
【神話】八上姫と大国主命 
http://www.pref.tottori.lg.jp/29281.htm
八上(やかみ)姫(ひめ)と大国主命(おおくにぬしのみこと)
 古代(こだい)―大国主命(おおくにぬしのみこと)が須佐男命(すさのおのみこと)の命令(めいれい)で国(くに)づくりを始(はじ)める少(すこ)し前(まえ)の話(はなし)である。
 神々(かみがみ)の里(さと)出雲(いずも)で大国主命(おおくにぬしのみこと)の異母(いぼ)兄弟(きょうだい)八十神(やそがみ)達(たち)は、因幡(いなば)の国(くに)八上(やかみ)の郷(さと)(現(げん)鳥取市河原町(とっとりしかわはらちょう))に美(うつく)しい姫(ひめ)がいると伝(つた)え聞(き)き、この八上(やかみ)姫(ひめ)をめとろうと考(かんが)えた。八十神(やそがみ)達(たち)は、弟(おとうと)の大国主命(おおくにぬしのみこと)に八上(やかみ)姫(ひめ)への贈(おく)り物(もの)をすべて持(も)たせると、弟(おとうと)を待(ま)つことなく因幡(いなば)の国(くに)へと向(む)かった。途中(とちゅう)の海岸(かいがん)で傷(きず)ついた白(しろ)ウサギが泣(な)いていたが、八十神(やそがみ)達(たち)はこれに誤(あやま)った治(なお)し方(かた)を教(おし)えて笑(わら)いものにし、大国主命(おおくにぬしのみこと)はわけを聞(き)いて助(たす) けた。
 さて、 先(さき)に八上(やかみ)の郷(さと)にたどり着(つ)いた八十神(やそがみ)達(たち)は八上(やかみ)姫(ひめ)に求婚(きゅうこん)したが、ことごとく断(ことわ)られてしまう。やがて遅(おく)れて着(つ)いた大国主命(おおくにぬしのみこと)に八上(やかみ)姫(ひめ)は「私(わたし)の慕(した)うお方(かた)はあなたです」と告(つ)げる。姫(ひめ)は、一目(いちもく)で人(ひと)となりを判断(はんだん)できる聰明(そうめい)な女性(じょせい)だったのだ。  この二人(ふたり)のロマンスにちなんだ地名(ちめい)が河原町(かわらちょう)には今(いま)も残(のこ)っている。例(たと)えば、大国主命(おおくにぬしのみこと)が贈(おく)り物(もの)をつめた袋(ふくろ)を捨(す)てた千代(せんだい)川(かわ)の河原(かわら)が「袋(ふくろ)河原(かわら)」、恋文(こいぶみ)を書(か)いたところが「倭文(しどり)」。また「円通寺(えんつうじ)」は、二人(ふたり)が縁(えん)を通(つう)じた「縁通路(えんつうじ)」に由来(ゆらい)するとか。   ところで、その後(ご)の話(はなし)。二人(ふたり)は八上(やかみ)の郷(さと)で幸(しあわ)せな結婚生活(けっこんせいかつ)をはじめ、やがて子供(こども)をもうけた。これをきっかけに、姫(ひめ)は夫(おっと)とともに出雲(いずも)に行(い)くことになったが、そこに待(ま)ち受(う)けていたのは正妻(せいさい)の須世理(すせり)姫(ひめ)。気性(きしょう)が激(はげ)しく嫉妬深(しっとぶか)い彼女(かのじょ)と折(お)りが合(あ)わず、八上(やかみ)姫(ひめ)は子供(こども)を残(のこ)して因幡(いなば)へ帰(かえ)る。
 傷心(しょうしん)の姫(ひめ)を郷(さと)の人々(ひとびと)は優(やさ)しく迎(むか)える。そして、姫(ひめ)は死後(しご)、売沼(めぬま)神社(じんじゃ)にまつられ、その裏山(うらやま)にある嶽(だけく)古墳(こふん)は、姫(ひめ)の墓(はか)と伝(つた)えられている。


伊福吉部徳足比売
●wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E7%A6%8F%E5%90%89%E9%83%A8%E5%BE%B3%E8%B6%B3%E6%AF%94%E5%A3%B2
(一部抜粋)
伊福吉部 徳足比売(いふくべ/いふきべ/いおきべ の とこたりひめ、生年不詳 - 和銅元年7月1日(708年7月22日))は、飛鳥時代の女性。姓は臣。位階は従七位下。文武天皇の時代の采女。
その遺骨を収めた骨蔵器に刻まれた銘文・墓誌は奈良時代以前の金石文として現存する16のうちの一つという貴重なものである。
墓跡と墓誌銘
江戸時代の安永3年(1774年)、因幡国法美郡稲葉郷宮下村(現鳥取県鳥取市国府町宮ノ下)にある無量光寺の裏山(宇部野山。現稲葉山)中腹から、長さ140cm、幅86cm、厚さ47cmの2枚の凝灰岩で作られた蓋石と台石から成る石櫃が発見され、蓋石の中央には穴を穿って骨蔵器が納められていた。その骨蔵器は鋳銅製で高さ16.5cmの合わせ蓋式、中には青灰色の灰のようなものがあったと伝えられている。直径26.4cmの蓋の表面には、108文字の漢字が16行にわたり放射状に刻まれており、徳足比売の経歴と葬送の経緯が記されている。
伊福吉部徳足比売の墓跡は国の史跡に指定されるとともに、骨蔵器も国の代表的逸品として重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館に保管されている。いずれも地方豪族層女性の葬送儀礼を知る上での貴重な資料であるが、特に墓誌銘は因幡国で発見されている最古の文字でもある。

●国宝 国立文化財機構
伊福吉部徳足比売骨蔵器 いほきべのとこたりひめこつぞうき  http://www.emuseum.jp/detail/100585/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=593&num=8


羽柴秀吉(豊臣秀吉)と鳥取城
「秀吉は本当にこの山に登ったのか?」が知りたくなり、いろいろ調べてみた。

●お城山展望台 河原城
http://www.kawahara-shiro.com/
(一部抜粋)
河原城の歴史
1)あの秀吉も陣を築いた“お城山”
2)“鳥取城攻め” 羽柴秀吉はお城山から進軍
3)因幡武田氏の“隆盛”と“滅亡”
4)“羽柴秀吉の鳥取城進攻” 先駆をした北村六郎左衛門とは
5)鳥取市にある“3つの丸山城”

羽柴秀吉が見たであろう眺望(河原城展望台より)

http://www.kawahara-shiro.com/history/history4
因幡国内には類似の禁制が幾つか確認されており、弓之河内以外は全て秀吉軍が因幡に進攻した直後に与えたもので、
山方之郷(現智頭町・天正8年5月16日)、用瀬之郷(現鳥取市用瀬町・天正8年5月)、
布施南北(現鳥取市布施、天正8年5月20日)が確認されている。
禁制を見ると、秀吉軍が志戸坂峠周辺を越え、5月16日に山方之郷(現智頭町)、20日に布施南北(現鳥取市布勢)で保護を約束し、
毛利方の鹿野城を攻略して6月には鳥取城を包囲・落城させた進攻ルートが判ります。

鳥取市河原町の丸山城
http://www.kawahara-shiro.com/history/history6
谷一木丸山の城は、天秤山(てんびょうざん:お城山)の丸山城のことで、山上は、三段に切り成らし、上段が20間(36.4㎡)、次の段が40間(72.4㎡)、下の段が60間(109.2㎡)ばかりある。
口碑(古くからの言い伝え)によれば、豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃、近郷弓河内の北村六左衛門の家に一夜陣営されて後、羽柴筑前守となられて御下向の時、この山に陣を張り、鳥取御凱陣の時の本陣の跡であろうとも言われている。
お城山の展望台の建設に先立ち、平成3年10月から約8カ月をかけて全面発掘調査が行われました。その結果、堀切、柱穴、廓など多くの遺構が発見され、中世山城の跡だったことが確認されています。

太閤ヶ平
●wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E3%83%B6%E5%B9%B3
(一部抜粋)
太閤ヶ平(たいこうがなる)は鳥取県鳥取市百谷字太閤ヶ平にある戦国時代の付城(前線基地)。
天正9年(1581年)、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による第二次鳥取城攻撃の際に造営された。
1957年(昭和32)秀吉の陣城跡は鳥取城と並び国の史跡指定を受けている。
これまで、羽柴秀吉は鳥取城攻撃にあたって、若狭国の商人を使って因幡国内の米を高値で買い集めたことで、鳥取城に対する経済封鎖を行ったとされてきた。近年になって、織田軍は次に述べるような3重の厳重な包囲網で鳥取城に対する経済封鎖を行っていたことが明らかになった。これは鳥取城に対する数年がかりで構築した大規模な経済封鎖だった[1]。
1.本項で述べる太閤ヶ平を中心とした包囲網。
2.毛利方に属していた、賀露港・二上山城・雨滝七曲城・市場城・生山城・船岡城・景石城・若桜鬼ヶ城・弓河内城・鹿野城を攻略したことによる、因幡国一円に及ぶ包囲網。
3.毛利方に属していた東伯耆の南条元続、南美作を支配していた宇喜多直家を調略したことによる、中国地方の東半分に及ぶ包囲網。

鳥取城攻めが二度あったことを始めて知った。

1580年 織田方秀吉の鳥取城攻めで(6~9月)の籠城戦。
1580年9月21日 和議により豊国は降伏しに鳥取城を出た。
1580年10月~ 鳥取城内の兵、百姓、婦女子約4千には餓死する者が出始めた。
1581年6月21日 織田方秀吉が約2~3万の大軍を率いて姫路城を出発。
1581年7月12日 鳥取城の東北の帝釈山(太閤ヶ平)に本陣を置き、鳥取城や支城の丸山城など包囲陣を完成。
1581年10月25日 吉川経家の切腹。鳥取城を開城。
1581年11月8日 羽柴秀吉は、姫路に帰城。

確かな証拠は見つけられなかったが・・・
資料の真偽も定かではないが・・・

間違っているかもしれないが・・・
現時点での結論は、

1580年(天正8年)
第一次鳥取城攻めで、
「河原城かつての丸山城に本陣を構えた。」
のかもしれない。

1581年(天正9年)
第二次鳥取城攻めで、
「太閤ヶ平に本陣を構えた。」
ようだ。